チームPLUS 1

店主敬白

1.バイクが好き

1955~56年頃だろうか。まだまだ4輪車が普及する前、オヤジの仕事の足はもっぱらバイクだった。ヒョイと抱えられタンクの上に乗せられ、初めて顔にあたる風で涙を流した3歳の頃の私。マタの下からイイ匂いがした。すごい速さで周りの景色が流れた。僕の一生を決めた原体験がそこに有った。エンジンの焼ける匂いと流れる風景、自分から
空気に当たっていく風圧。

 道端に坐って、通り過ぎるバイクを1日中見てても飽きなかった。あれはベンリーこれはドリーム。あっ、メグロが通った。と1日過ごした幼年期。当時2ケタの国道でもまだまだジャリ道が多かった。埃まみれになって家に帰ってよく叱られた。

 某年・秋。花見シーズン以外は人通りが殆ど無いお城山(少年時代を過ごした津山城跡)に、同級生がオヤジのラビットを持ち出して来た。当然無断で。ここまでどうやって来た?と聞きもせず順番に乗った。身体に電気が走った。空気を押し分けて進む感覚にシビレた。快感に酔った。ラビットはちょっと違う独特のイイ匂いがした。どうやって返すのかも聞かずに別れた。家に帰っても余韻が残っていた。風呂の中でも、布団の中でも腕を突き出して右手首をひねっていた。これゃー止められん。と思った。

 68年秋。「先生。オートバイの免許取りに行くんで明日は休みます」「そうか、1回で取れぇよ。まーがんばれぇー」こんな時代だった。免許取得。お陰で新聞配達も楽になった。大手を振ってスーパーカブで配達出来る。今考えるに、県北の冬は相当に寒さがキツイ。寒いと思った記憶はあるが、辛いと思った記憶は無い。カブに乗っても楽しかった。配達部数も大幅アップしたから、給料もアップした。やった!バイクが買える!

 高校の仲間にバイクブローカーがいた。随分顔の広いヤツで、予算と車種を言っておけば必ず1週間以内には見つけてきた。不思議な高校生だった。ちゃんとした商才のある高校生が存在したり、高校生とはいえちゃんと社会性を備えたヤツが多かった時代でもあった。私はその両方共にあてはまらなかったけど。マイファースト・バイクはCS90と決めて彼に発注した。

 新車価格7万2千円。最高出力8ps/9.500rpm・ロータリー4段変速・最高速100km/hのスペックを誇った。TボーンフレームにはOHC50×45.6のショートストロークエンジンが載っていた。黒いタンクにメッキのカバーがまだ眩しい中古のCSは、先ずハンドルが一文字(判ってもらえるかなぁ、どんなハンドルか)に交換された。これは当時のお約束。

 翌月の給料で念願のキャプトンマフラーに交換。ただし、ニードルを一番上までつりあげてもノーマルマフラーの方が速かった。でも、やっぱり音が最優先。今も昔もバイクは五感の刺激要素が多いほうが楽しいに決まっている。因みに「カミナリ族」とかといった用語が生まれたのは私のせいではありません。もっと都会で、もっと大きなバイクに乗るコトの出来た人達が付けられた呼称です。
 69年夏。不調、絶不調、最高速60キロのCSになってしまった。半年の間、私はバイクの言う事をぜんぜん聞いてなかった。いや、判らなかった。調子がだんだん悪くなっている事が。とりあえずプラグを掃除してみた。ギャップを狭くすると62キロ出るようになった。エアクリーナーを掃除すると一気に70キロに戻った。でも以前の自己最高記録メーター読み95キロの世界は程遠い。あきらめた。プロに助けを求めよう。

 鶴山通り(津山です)と美作高校の間の通りにバイク屋があった。ガラス戸をガラガラっと開けると、微かなあのエンジンの焼けた匂いの残り香。それと鉄とオイルの匂い。うーん、部屋じゅうがバイクの匂いだ。

「こうこうなんじゃけど・・・」と、私。

ろくに返事もせず、寡黙に道具を使う当時のスタンダートなオヤジさん。今思えば当たり前の手当てをテキパと処理。なんであんなに道具持つ手が段取り良く動くんだろう。見てて飽きない。

 直った。それからは少しずつ異変、異変の兆しを感じられるようになった。その都度オヤジさんを訪ねた。どんな作業も見てても飽きなかった。バイク屋の匂いに包まれて妙にシアワセだった。