チームPLUS 1

店主敬白

7.自動車修理で思った事-2

勤め始めてからの4年間、みんな朝から晩まで楽しい顔、イイ顔して働いていた。私もイイ顔してたと思う。叱られても嬉しかった。ホント楽しく仕事が出来ていた。職場でみんなが毎日笑顔で過ごす事が当たり前だと思っていた。世相なのか、社風なのか、全社員が生き生きしてた。

ところがところが…会社が倒産した。突然。

 時は1974年。石油製品、電力、紙なんかも一斉に値上がりした。今考えると、オイルショックの一発目の余波で潰れたのかなァ。当時は、社費でボンさんまで連れてのキャバレー遊びをしていたツケがまわって来たんだ。まァ、楽しかったからイイか。とか思っていた。田中マキコ外相のオヤジさんが、「金脈問題」とかで首相を退陣表明。アメリカではニクソンさんが覗きじゃない、盗聴かなんかやってたとかで大統領辞任。「色濃い」人達が表舞台から消えていった年だったようです。そう言えば、長島の現役引退もこの年だったかも知れない。水島の原油大流出事故もあった。産油国、石油がそのパワーを見せ付け、石油を持たざる日本国民は急に背中丸めてうつむき加減、お役人は「ゼロ成長」とか訳の判らない言葉を編み出した。

 夢のような4年間は終わった。遊ぶ為に働く。本気で働いた後の遊びは、これまた特に楽しい。楽しく学んだこの4年間は私の大きな財産となったのです。間違い無く。
 この会社に勤めてて本当に良かった。本当に有難うございます。お客様、社長、諸先輩の皆さん。

 さて、次はどんな楽しいメに遭うんだろうか。と、今後の身の振り方、身の置き所への不安なんか何も気にせず、ただ前向き方面にだけ考えてしまう不思議な23歳の私です。

 この頃はただのインフレ期で、まだ不況期には入っていない。大先輩達はこぞって独立。小先輩達はすぐに新しい職に付いた。さて、どうしたものかとボヤリ考えていた矢先。諸先輩より一足先に独立していた大先輩の森さんが「内田ワシの所に来い」と誘ってくれた。渡りに舟。話のわかる専務さんで通っていた森さんの誘いに「はい。宜しくお願いします」と即答した。

 「ホンダだけじゃこの先食えんから、わしはなんでも売る」と森社長は言った。「勉強して来い」と言われ、私はメーカー系のディーラーに出向することになる。トヨタとダハツの2社での勤務。職場の雰囲気も触る車輌も随分と違う。ホンダしか知らなかった私にとって、この期間はカルチャーショックの連続です。

 この出向で「普通の車」を初めて知った。いや当時のホンダがいかに独創的だったかを再確認した。ヘッドカバーを外すと、えっ、そこには…カムシャフトが無いではないか!カローラに載っていたKエンジンのタペット調整は、エンジンかけた状態で出来たりもする。信じられん…へーっ…ヘッドが30分で外せるエンジンがあったりするんだ!クラッチのオーバーホールも30分有れば・・・出来た!なんとなんと、段取りのエエことか。でも、面白ぉ無いよなー。整備しても乗ってみても。

 型式・2TGエンジン(なんたってツインカム!)。巷で言われているほどは楽しく感じなかった。でも壊れなかった。誰が乗ってもちゃんと回る。整備に特有のコツが要らない。全方位外交、頷き上手、誰がみてもヨイ人町内会会長的エンジンは面白くない。結果、全て無難に作らざるを得ないではないか。整備の仕事は楽だけど。といった発見が有った。私の感覚では、N450の方がよっぽどエキサイティングだった。2TGよりも。

整備の仕事にしても、乗るにしても「ラク」と「タノシイ」は違う。

 ヒーターかけると漏れたオイルが燃えて、室内はあの匂いで充満した。けど、あの匂いがせんと楽しゅうない。「オイル漏れ」自体を信奉するものでは決してありません。なんて言ったらイイのだろう、「楽しいエンジン作りました」「結果、オイルが漏れたりするのよネ」このあたりの因果関係を「正しい!」と評価する私でした。う、ウゥーン上手く表現出来ない。このあたりのトコ、どうかご理解いただきたい。

 乗り物に対して、自分の評価基準が固まり始めた出向社員時代の私。楽しいか、楽しく無いか。至って単純だけど。判り易いでしょ。

 私の評価に反して(当たり前か?)、世の中が求めている自動車はカローラだった。決してホンダ・センサンではなかった。センサン(1300cc DDAC)DDACは強制空冷のコト。F1にも採用されたのは本田宗一郎氏のわがままだったとか。OHCエンジンで99(ナインナイン、キューキューとか言う人もいた)の4連CVキャブ仕様はまことにホント楽しかった。公称リッター100PSエンジン。あっという間にシビックの水冷エンジンに代わったけど、今思うに当時の4輪エンジンでは一番スゴイ、正しいエンジンだったと高く評価する私です。あの匂いもしっかり付いてたし。

 時代はエンジニアからチェンジニアへの過度期。修理屋から部品交換屋に変わろうとしていた。社長の森さんは叩き上げの修理屋さんで、部品交換の嫌いな人だった。電装屋さんの仕事(クーラーのコンプレッサー、オルタネ―ター、セルモーターとかのオーバーホール)まで自社で出来そうな事はなんでもチャレンジさせてくれた。分解時がいかに大切か。いかに集中するか。初めての物を開くと何時間も観察して、なんでこうなっとるんかなぁ。と考えると、ますます楽しい毎日になっていった。こういったコトにはしっかり時間もくれた。

 森さんはホントにちゃんとした勉強の機会を与えてくれた。出向でお勉強は終わりかと思いきや、「若いうちに取っておけ」との業務命令。2級整備士にチャレンジ。遊びながらもらった3級とはちょっと違っていた。初めて問題集を見た時には、問題の意味さえ分からないトコもある。「こりゃーオエンがなぁー」生まれて初めて本気で座学のお勉強。

 どうにか1発合格。出向させてもらってこの業界を広く知ると共に、(大きなディーラーっても工場はたいしたこたぁねーや。といったやや不遜な)自信も付いたコトも嬉しかったけど、この試験の合格も嬉しかった。みんなを呼んで、たらふくホルモン食って、たらふくビールを飲んでお祝いした。ちなみに当時ホルモン焼き(ホルモンと野菜を大きな鉄板の上で人数分焼いてくれる。そして周りに坐ったお客さんに小分けしてくれる)1人前60円。大飯(ごはん大盛り・ダイメシと読む)40円だったような気がする。今思い出したけど、スズカサーキット近くの焼肉屋さんは、この正しいスタイルを維持してて、且つ旨かった。

 そうこうしているうちに、私にボンさんが付いた。先輩と呼ばれる立場になった。やっている事は同じだったが、工場長になった。一番最初の社員というだけで。「先輩」とか「工場長」とか呼ばれることとなったが、「うぅーん。なかなかヨイ響きではないか」と感慨に浸る時間は全く無かった。

 むっむむむ、難しい。直せるというコトと、それを教える事が出来る。というコトはゼンゼン違った。伝わらない。解ってくれない。若い子を育てる立場になり、人を育てる事の大変さを初めて知った。しかも、私がこの業界に入った頃の様に見て盗む時代は過ぎ、教えて育てる時代に入っていた。

 結婚して親になった責任。会社で整備部門を任された責任。新人の育成責任。多重プレッシャーに潰されることも無く(偉い!でしょ。プレッシャーをプレッシャーとも感じず、その時自分で出来るコトだけを健気に一生懸命やる。ただ自分に甘いだけ?これが私のコア・コンピタンス?)、相変わらず楽しく仕事し、楽しく遊び続ける20代後半の私。

 ところで、皆さんは焼玉エンジンってご存知だろうか。釣り師のお兄さんの影響で森さんが舟を手に入れた。戦後すぐに造られたであろう木造船のレストアは、毎週土曜日の午後から日が暮れるまで毎週続いた。
なんと焼玉エンジンが載っていた。全て鋳鉄で造られた2気筒エンジンは、大きなフライホイールに取っ手が付いている。その取っ手を掴み、体全体を使ってひたすら弾みがつくまで廻す。その間デコンプで圧縮を抜き、頃合いをはかってデコンプ切る。と、シュパン…シュパン…タン・タンタンタンタンタンと火が入る。
 ケッチンも相当なものだったし、体全身がスターター、とてもとても疲れる。かかった時の達成感はバイク以上だった。やっぱりあの匂いがした。どうして内燃機が発する匂いはヨイ匂いなんだろう。みんな違う匂いだけれど、心まで届く匂い。気持ち安らぐこの匂い。一生嗅いでいられたら最高だな。と、海の上で感じた私はやっぱり異常体質なのでしょうか。

 その後、トラック用のスターターモーターに外径100mm程のゴムローラーを組みつけ、フライホイールにこすり付けて廻す新兵器が装備された。サーキットで見るアレです。出漁前のエンジン始動は眠気覚ましにぴったりだったけど、随分と助かった。釣りの楽しさを知った新米工場長は余計に家に居ないオヤジになっていった。ホント居なかった。これ書きながら、今更ながら少しは反省してます。もう遅いか。